三重と東京。西洋料理の歴史を未来に紡ぐ。粋な心は、歓びの種となる。


東京都港区元赤坂の西洋御料理 東洋軒
▲東京都港区元赤坂の西洋御料理 東洋軒。写真提供:東洋軒


東京都港区元赤坂の西洋御料理 東洋軒
▲東京都港区元赤坂の西洋御料理 東洋軒。写真提供:東洋軒

ミシュランガイド東京ビブグルマンに掲載された、東京都港区元赤坂にある西洋料理店の本店が、三重県津市にある。

津市にある本店
▲津市にある本店


津市にある本店
▲津市にある本店

そして、この店の看板メニューでもある、ブラックカレーの誕生には、元銀行の頭取で近代陶芸の父と呼ばれている粋人が深く関わっていた。

———東の魯山人、西の半泥子。おれは、ろくろの、まわるまま。

ブラックカレーに深く関わっていたのは、川喜田半泥子。[かわきたはんでいし。1878年〜1963年。本名:川喜田久太夫政令(かわきたきゅうだゆうまさのり)]
15代続く伊勢の豪商に生まれ、津で育ち、大正8年に百五銀行の頭取となる。津市議会議員や三重県議会議員も務めた。

川喜田半泥子の写真と作品

「昭和の光悦」と称され、スーツ姿でろくろを回すポートレイト写真が印象的だ。

ギャラリーの館内

そんな半泥子の人物像を知りたくなり、津市にある半泥子廣永窯のギャラリーへ伺った。
半泥子廣永窯社長の村山暁さんに、その作品を見せていただいた。
最初に、半泥子という人間を理解しやすいという半泥子作の狛犬。

半泥子作「狛犬」

この作品は、窯のある敷地内に置くための狛犬だ。
通常、狛犬の口は「阿(あ・オス)と、吽(うん・メス)」となっている。
しかし、半泥子のそれは「吽(うん・オス)と、吽(うん・メス)」。
窯で焼いているときに、棚板がオスの狛犬の頭に落ち、焼き上がって見たらオスも「吽(うん)」の口になっていた。
しかし半泥子は、それをかえって面白がったという。
また、作品につける銘もユニークだ。

半泥子作「水指 かんにん袋」

水指 かんにん袋。
ユニークさや独自の視点は、自由な表現をする現代アートにも通じるようなセンスを感じた。
村山さんにさらにお話を伺った。

半泥子廣永窯 村山暁さん
▲半泥子廣永窯 村山暁さん

村山さん:半泥子は、表千家の11代久田宗也(1884〜1946年)の直弟子でもあり、お茶の世界に精通していました。しかし自身でお茶を飲むときにはあぐらをかいていたのではないかと思います。お茶の作法を身につけながら作法にはこだわらない、他人にもそれを求めないそのような人柄でした。また3名の人間国宝、萩焼三輪窯休和、備前の金重陶陽、美濃の荒川豊蔵とともに「からひね会」を立ち上げました。

半泥子作 粉引茶盌 銘「お徳庵」
▲半泥子は呑口が曲がっていても、ひびが入っていても、それも含めて作品とした。

趣味人であった半泥子は、からひね会を通じて、そうそうたる陶芸家からろくろや焼成の技術を学びとりながら、逆に精神面ではそういった陶芸家の指導者的な立場にあったいう。
「おれは、ろくろの、まわるまま」という言葉を残した半泥子なので、気の向くままのスタイルのようだが、お茶にも陶芸にも深い知識があり、その上で築いたオリジナルのスタイルだ。

半泥子が描いた図。
▲半泥子が描いた図。左上の浜作の近くに千歳山の自宅と窯があった。中心に描かれているビルには西洋料理店の看板。

村山さん:GHQに土地を接収されるまで、市内の千歳山というところに自宅と窯がありました。そこに伊勢神宮へ参拝する皇族の方が来られたとき、手の込んだ料理などでなく、焼きいもを饗したといわれています。その焼きいもが好評だったみたいです。

聞けば聞くほど興味が湧いてくる、半泥子という人間。
「東の魯山人、西の半泥子」とも称されていたので、食にも精通していたのだろうか?

村山さん:半泥子は、クリントン元大統領など世界の要人も御用達で、今や日本を代表するといっても過言ではない銀座の天ぷら料理店とも交流がありました。今でも、その店と廣永窯は繋がっています。食にも精通していたと思いますが、職人さんと交友関係を持つのが好きだったようです。遊び心や好奇心のある人だったので、そういう交友関係から新しいものができてきたのだと思います。

ブラックカレー専用皿
▲東洋軒本店から依頼を受け、廣永窯が最近制作したブラックカレー専用皿。

私は、そういう遊び心や好奇心は「粋」だと思う。
それは、忙しい現代に生きる私たちが、忘れがちな大切な心だと思った。
後に詳しく書くが、半泥子の遊び心や好奇心からブラックカレーが誕生して、今や津市を語る名物料理になっている。
世の中で後世に残る物事の始まりは、マーケティングなどが発端ではなく、案外そういった楽しむ気持ちから始まっているのかも知れない。 そして、物事が継続し広がっていくには、磨き上げの精神も必要だ。
では、ブラックカレーにまつわるその精神を探る前に、まずはブラックカレーを堪能したい。

———歴史と想いを、紡ぐということ。

2階の個室

店に伺った。
ここの店は、東洋軒本店という。
東洋軒という屋号と聞いて、明治時代を思い浮かべる人は食通である証だ。
ブラックカレーができあがるまで、筆者が引っ掛かっていたことをお店の方に聞いてみた。
それは「西洋料理」と「洋食」の違いだ。

お店の方:日本において、「洋食」が食事に占める割合はとても大きなものです。日本の料理人は欧米から学んだ「西洋料理」を「ごはん(お米)に合うご馳走」にアレンジして、日本の皆さんが愛してやまない現代の「洋食」となりました。「洋食」は、日本人が気が付いていないことが多いですが、実は日本独自の食文化なのです。

なるほど。ストンと腑に落ちた。
コロッケ、エビフライ、ハンバーグなどは、確かにごはんに合う。
そんなことを考えていたら、おなかが空いてきた・・・。
そこへタイミング良く、運ばれてきたブラックカレー。

ブラックカレー

口へ運ぶと、黒さから想像していた味とは違った。
コクが深く、濃厚なのにしつこくなく、後味はあっさりとしていて、一般的なカレーより、まろやかな印象だ。

館内の階段
▲趣のある館内
1921年のクリスマスディナー献立
▲店内に飾られている1921年のクリスマスディナー献立。写真提供:東洋軒

津市にある東洋軒本店は、日本の西洋料理の草分けといわれる東京三田の東洋軒の出張所として、暖簾分けしたことがスタートだった。

東洋軒出張所があった百五銀行本店
▲東洋軒出張所があった百五銀行本店。写真提供:東洋軒

半泥子が1928年に百五銀行本店の館内に誘致してきたのだ。

移築した建物
▲移築した建物。写真提供:東洋軒

その後1955年に、大正時代に建てられた百五銀行伊賀上野支店の建物を、現在の地へ移築して東洋軒の店舗とした。

初代料理長の猪俣重勝さん
▲初代料理長の猪俣重勝さん。写真提供:東洋軒

そしてブラックカレー誕生のきっかけは、津市にできた東京東洋軒出張所の初代料理長の猪俣重勝さんに、半泥子が作るように持ちかけたことだった。
半泥子は、東京で食べた色の濃いカレーが印象に残っていたので、猪俣料理長に色の濃いカレーの開発を依頼し、何度も試行錯誤を重ね完成したのがブラックカレーだ。

そして今、ブラックカレーは津市を飛び出し、東京都港区元赤坂の西洋御料理 東洋軒でも提供されている。

東京三田の東洋軒。
▲東京三田の東洋軒。写真提供:東洋軒

明治時代に東京三田で創業し、日本の洋食レストランの先駈けでもあった東洋軒は数年前に惜しまれつつ閉店したが、その伝統は、暖簾分けした三重県津市で脈々と受け継がれていたのだった。
東洋軒のいわば「東京への里帰り」について、三代目の猪俣憲一さんにお話を伺った。

東洋軒本店の玄関には三田の東洋軒から引き継いだ品々。
▲東洋軒本店の玄関には三田の東洋軒から引き継いだ品々。
フォークセット
▲引き継いだフォークセット。
引き継いだ、帝国議会議事堂(現:国会議事堂)竣工式で使われた、オールドノリタケの皿。
▲引き継いだ、帝国議会議事堂(現:国会議事堂)竣工式で使われた、オールドノリタケの皿。写真提供:東洋軒
晩餐会などへ食器を運んでいた、当時の木箱。
▲晩餐会などへ食器を運んでいた、当時の木箱。写真提供:東洋軒

憲一さん:日本の西洋料理の歴史そのものといえる、東洋軒の暖簾を預かっていることは、大きなプレッシャーを感じますが、大変幸せなことです。私たちが預かっている間に、この暖簾を、更にどれだけ磨き上げることができるかが大切だと思っています。また、老舗とは、古いから良いというのではなく、常に時代の変化や味覚の変化に対応し、次の代へと繋げていくことで、続いていけると考えています。そして今が変革の時だと思い、私たちにとっては大変大きな挑戦ではありましたが、東洋軒の伝統と、時代にあった最高の料理を創るために、2014年、東京へ里帰り出店を決意しました。三重県で90年育てていただき、再び現在、東京のお客様にも育てていただいて、とてもありがたいです。東京店では、「西洋料理」の上品さと「洋食」の親しみやすさ、そして、できる限り安全安心な国産の食材を使用し、よりヘルシーな料理にする為に調理方法も一から見直しました。特に故郷である美し国三重の素晴らしい食材を、東京店でもご提供させていただけるお陰で、お客様に喜ばれていると感じています。

また、東洋軒の歴史について、東京のお客さんが津市のことを広めてくれることもあるとも、嬉しそうに語ってくれた憲一さん。

宮内省 宮家へのお見積もり帳

同席していた憲一さんの弟で常務の猪俣嘉三さんが、東洋軒が明治時代に宮内省宮家へ提出したお見積もり帳控えの綴りを見せてくれた。

嘉三さん:ワインがボルドーばかりなんです。なぜ、ブルゴーニュがないのか、わかりますか?

明治時代には日英同盟が締結されていたが、ボルドーは約300年間(1154年〜1453年)イギリス領であり、その名残で明治時代の晩餐会はボルドーが使われていたという。

———日本人の力。

西洋に追いつけ追い越せの富国強兵の時代。
外国から貴賓を招いての晩餐会も頻繁に行われていた。
晩餐会での料理は、日本という国の文化度の高さを表現するチャンスであった。
そして、日本からフランスなどに修行に行き、腕を磨いて帰ってきた料理人は、その技術を店の垣根を越えて共有していた。

三田の東洋軒の当時キッチン。
▲東京三田の東洋軒の当時キッチン。写真提供:東洋軒

伊藤博文や歴代の閣僚のすすめもあり、西洋料理店として開業した東京三田の東洋軒は、宮内省御用達であった。テレビドラマにもなった小説「天皇の料理番」の主人公である秋山徳蔵は、東洋軒の三代目料理長だ。

三田の東洋軒の当時店内。
▲東京三田の東洋軒の当時店内。写真提供:東洋軒

その後、西洋料理が普及してくる中で、日本から遠い西洋で使われている食材を揃えることは困難であった。日本人は日本にある食材で、西洋で使われている食材を代用し、独自の洋食という食文化を築いていく。

島国である日本は、料理に限らず、日本に馴染む形に変えて、独自の物にする技術に優れている。
なるほど。
「洋食はごはんに合うご馳走」だ。

———料理は生き物

二代目で現マスターの猪俣重信さんにも、お話を伺った。
まずはブラックカレーの作り方について。
ブラックカレーは白から黒にする。
つまり小麦粉やスパイス等を、炭になる前の限界まで炒めるのだという。
炒める期間は、なんと2〜3週間。

猪俣重信さん
▲東洋軒本店2代目の猪俣重信さん

重信さん:途中で焦がしてしまったら、すべて台無しになってしまいます。

ところで、ブラックカレーは、半泥子と開発した当時の味のままなのだろうか?

重信さん:いえ、当時のブラックカレーはもっと辛く、そしてグルメの方への裏メニューみたいな存在でした。私は、さらに美味しくなるように常に改良を重ねています。それは今日も、です。

24歳で料理人の世界に入り、今年で57年目。
重信さんの日々の研鑽、料理人としての姿勢はどこから来たのだろうか?

重信さん:先代から「手を抜くな。常に自分のできる最高の仕事をしなさい」と育ててもらいました。

東京から移住して半泥子とブラックカレーを作った初代重勝さん、二代目重信さんの研鑽、三代目憲一さんの決断。
いろいろなことが頭によぎり、しばし質問が出てこない私に、重信さんが言葉をくれた。

猪俣重信さん

重信さん:料理は、生き物なんです。

取材を終え、考えることの多さに、筆が進まなかった。
そんな中ただ一つ、点と点が線で繋がったことがある。
それは「日本に産まれ育ったいうこと」だ。
日々の研鑽を惜しまず、よりよい物へと改良していく力がある。
新しい物事を取り入れ、ここに合ったものに加工していく力がある。
そして時に、その独特の美学「粋」な心で楽しむ力がある。

どんな時代に生きようが、研鑽に励む「謙虚さ」を忘れずに生きたいと思った。

半泥子作の狛犬

そして「粋」な遊び心も。



(2018年1月31日・2月8日取材)
企画編集:三重に暮らす・旅するWEBマガジンOTONAMIE運営本部
取材:村山 祐介(OTONAMIE代表)

取材協力

株式会社 東洋軒
三重県津市丸之内29-17
Tel 059-225-2882
HP http://www.touyouken.co.jp
Facebook https://www.facebook.com/東洋軒-360054327681357/

株式会社 半泥子廣永窯
三重県津市東丸之内33-1
Tel 059-221-7120
HP http://www.chitose.co.jp/gallery/

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